山本伸樹氏が創作した「メッセージ」(金魚電話ボックス)が著作権法の保護の対象になるか,保護されるとして,その保護範囲について種々議論が行われているところです。
まず,山本伸樹氏が創作した「メッセージ」(金魚電話ボックス)は,専ら鑑賞の対象となる純粋美術であるとういことが重要です。
法律の世界では,専ら鑑賞の対象となる「純粋美術」であるか,それとも,実用性を兼ね備えた物を対象にした芸術表現が加えられている「応用美術」であるのか重要となります。
専ら鑑賞の対象となる「純粋美術」は,創作者が思想や感情を表現する対象に制限がなく,時にはキャンバスであったり,一本の木であったり,一個の石であったり,一塊の金属であったり,実に様々です。
そして,芸術家が任意に選択した対象に対して,自由に思想や感情を表現するため,表現選択の幅が非常に広いと言えます。
他方,「応用美術」においては,思想や感情を表現する対象が特定の実用品に限られており,実用品の機能を損なわない範囲で思想や感情を表現する必要があり,自ずと,表現選択の幅が制限されることになります。
また,「応用美術」においては,実用品に施された芸術表現を保護することで,結果として特定の実用品制作を独占させてしまうことにならないように配慮する必要があるのです。
以上の「純粋美術」と「応用美術」との差が,法律によって求められる表現の創作性の程度の差としてあらわれるのです。
一般的に「純粋美術」においては,創作者の個性が表現されていれば創作性が認められるのに対し,「応用美術」においては,芸術表現の対象となった実用品の用途と離れて,専ら鑑賞の対象になる程度の高い創作性が表現されていることが求められます。
山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)は,専ら鑑賞の対象となる「純粋美術」であり,思想や感情の表現方法として,公衆電話ボックスに見える部材を使用したという性格の表現です。
ですから,山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)は,同氏の個性が表現されていればよいということになるのです。
そして,山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)以前に,同様の表現を確認することができず,一般の方にとっても,過去に類のない斬新な表現であると受け止められたからこそ,「金魚電話ボックス」の問題に注目が集まっているのだと思います。
山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)に同氏の個性が表現されていることは疑いようがなく,著作権法で求められている創作性が認められることについても疑いようがないと思います。
ところで,山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)が著作権法によって保護されるとして,どの程度似通った作品を製作すると著作権を侵害することになるのでしょうか。
この問題は,著作物だけではなく,他の知的財産においてもあてはまることなのですが,問題となる知的財産の周辺にどの程度似通ったものが存在するかということと関係してきます。
仮に,問題となる著作物の周りに,似た著作物が多数存在するのであれば,問題となる著作物の権利が及ぶ範囲は狭くなりますが,唯一無二の存在であるなら権利が及ぶ範囲が広くなります。
山本伸樹氏の「メッセージ」(金魚電話ボックス)以前に,同様の表現方法を採用した表現というものは確認できないわけですから,同氏の著作権の範囲は広いものと考えられることになります。
例えば,電話機の形状や色が少し違う,公衆電話ボックス様の水槽に水を貼る量が少し違う,水槽を縁取る枠の色が少し違う程度であれば,山本伸樹氏の著作権の範囲から脱していないと思います。
なお,地元商店街の金魚電話ボックスは,山本氏の著作物のアイデアを模倣しただけであると主張が一部で行われていますが,これは,著作物の複製とアイデアの模倣との関係について全く理解ができていない主張であるというほかありません。
アイデアの模倣という議論は,比較する二つのものの間に埋めがたい相違点が存在する場合に,そうであっても両者が似ていると主張する場合に,当該部分を抽象化した上で主張することがあるのですが,そういった場合に,著作権者は,現実の表現物から離れてアイデアの比較を行っているという反論が行われた場合に出てくる議論です。
山本伸樹氏の場合には,現に存在する「メッセージ」(金魚電話ボックス)を基準にして,地元商店街の金魚電話ボックスが複製物であると主張しているわけですから,アイデアの模倣という議論が出てくることはありません。
世の中で行われている山本伸樹氏の著作権問題に関する議論では,このような視点での考察が行われていないように思いましたので,私の考えをまとめてみました。
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